10日ほど前に、父が他界した。
長いし暗い話で、人によっては気分が悪くなると思うので閲覧注意。
私の生い立ち
11月ぐらいに倒れて、そこから入院していた。倒れた当時から、もう長くないという話だった。
そこから私は見舞いに行ってない。ついでに言うなら通夜にも葬儀にも出ていない。
私と父は絶縁状態だった。といっても勘当されたわけでなく、家を出て行ったのは父のほうだった。
最後に家に出て行ったのは私が12歳ぐらいのころ。家に帰ってくる回数が減り、やがて完全に帰ってこなくなった。
もともとトラックに乗る仕事で不在がちだったのだが、私は父が仕事に行ったままになってると思っていた。
きびしい父が苦手だったので、家にいないと逆にうれしかったような覚えがある。だから父が家にいない状態を、よろこんでいたような気もする。
私は姉が二人いる、三人兄弟の末っ子だ。
大変だったのは母だ。高校生、中学生の子どもを、パートで養ってくれた。まあいま思えば貧しかったが、友達もいるし楽しい中学校生活を送らせてもらえた。お金がなくて修学旅行に行けないとか、修学旅行に持っていけるお金がみんなより少ないということもなかった。
女手ひとつでとてもよくやってくれてた。いつもそうだが、父の事を思い出そうとすると、母がしてくれた事の大きさに感謝することになる。
私たち残された家族の中には、父という存在はなくなっていた。
4人の家族で生きていた。母は必死だったろうが、子どもたちはそれなりに普通の生活をしていた。特に引け目を感じる事もなく、私は普通の思春期を送った。
高校時代のバイト代は、毎月5000円家に入れる事にはなっていたけど。普通の家なら、それは大きくなったときのために貯めてる事だろうが、我が家では生活費になっていた事は間違いない。
姉弟3人とも、高校卒業して働き出した。働けるようになれば、もう貧しいということもない。母の子育ては無事に終了したのだった。
父と再会する
父の兄である伯父さんにはお世話になっていた。この人も、貧しい母に小金を借りに来るというよくわからない人だったけども。
伯父さんが亡くなって葬儀に出た。
私の一番上の子が生まれたばかりだったか。入院中にお見舞いに行っていたけど、まだ生まれてなかったように思う。直接見せる事は叶わなく、葬式の時なきがらに初めて見せられた覚えがある。
その葬式の時、父は起き上がれないぐらい酔っていた。嫌悪した。言葉は交わさなかった。
姉は、「久しぶりに(父自身も)親戚に会って、いろいろ話すことがあったんだろう」と言っていたが、私自身もとから会いたくない気持ちもあったため、改めて父は自分の中でいないものとなっていた。
姉はその後、たまに連絡を取るようになっていたらしい。母とも正式に離婚して、小額ながら慰謝料を払うようになったと思う。
父との関係
父との関係は、私の中では存在しないものだった。
行きずりの人にこの話をすると「いや、そう言っても君がいるのはお父さんのおかげなんだから」とか、「いつか打ち解けられるといいいと思う」なんて訳知り顔で言ってくる。私も他人が相手なら、きっとそう言ったかもしれない。何しろ世界でただ一人の父なんだから。
が、私の感想は「(知りもしないで何を言う)・・・。」という醒めたものだった。
確執ではない。恨みがあるというわけでもない。私にとって父はいないのだ。いない人間相手に打ち解けるわけがない。
また再会
その数年後、父と3人姉弟、そして一番上の姉の娘2人(父からみた孫)の6人で会う機会ができた。私は嫌だったが、真ん中の姉がセッティングしたのかと思う。真ん中の姉は、このごろから父とわりと仲良く会っていたようだった。
ファミレスで食事をしたのだったが、当日は体調が悪かった。早く帰りたかった。
違和感しかなかった。いないはずの人がそこにいる。まともな会話はしなかった。当時私は20代中ごろで、子を持つ親だったが反抗期の中学生のような受け答えだった。
質問にだけそっけなく答えていた。
食事を終え父が支払いをしたのだが、直接ズボンのポケットから1万円札を出していた。「ああ、この人はお金がない人なんだな」って思った。この日のために用意した1万円のように見えた。(数日後に知って驚いたのだが、何と母に借りた1万円だったらしい。)
やっと終わりかと思ったが、買い物に行くと言い出した。早く帰りたいと言ったが、姉に説得されたか。ついていくことになった。
車に乗ってかなりの距離を走った。家と違う方角へ行くので、体調の悪い私はイライラしていた。
買ってきたものはアイスだった。子どものころ、家族みんなで食べた大きなアイスだった。
こんなものを買うために、わざわざここまできたのかと思った。こんなのどこでも売ってるだろうに。しかも私も子どもではない。自分で買おうと思えばアイスぐらいいくらでも買える。体調が悪いといっているのに、この時間を使う無神経さにイライラした。
しかし私は文句も言わなかった。この場が終われば、もうそれでいい。
父としては、子どものころの家族の団欒を演出したかったのだろう。
後日談として、父が「あいつ(私)とはうまくやっていけそうな気がする」と母に話したらしい。私が父と言葉を交わしたのはその日が最後だ。
真ん中の姉が数年後結婚式を挙げた。私は姉を差し置いて結婚していただからだが。父も来ていたが、話すことはなかった。会ったのはその日が最後だ。私と父との関わりは、人生においてこれだけである。
父が倒れた
姉から連絡が来た。父が倒れた、と連絡が来た、と。姉も親戚からの連絡を受けてのものだった。
もう長くないという。私は、ああ、そうなんだと思った。お見舞いには行ってない。
関わりのない近所のだれだれさんが倒れたって聞いたのと同じ感覚だ。ふーん、って思うだけだ。
すぐに死ぬかと思ったが、意外と長引いた。途中で誕生日を迎えた。73歳になったのか。年齢もよく知らない。
正月が来て、私たち家族は集まった。思い返せば父の話は出なかった。
そして先日死んだ。朝早くに姉から電話がかかってきたので、電話に出る前に直感で「あ、死んだ」と思った。
「今日がお通夜で明日が葬式なんだけど」と言われた。近場だったが、仕事もあったし断った。妻にだけ話した。私の子どもたちにはまだ伝えていない。
葬式に来ない息子を、参列者はどう思っただろう。薄情だとか、人でなしに思ったろう。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という言葉がある。マザーテレサの言葉と思っていたが、ググッたらよくわからなくなかった。が、誰の言葉でもいい。
私はこの通りだった。
父は家族を捨てた。私もそれを受け入れて、父の存在を消した。決別した。
死んだと聞いても悲しくもならなかった。
恨みつらみが今あるわけでもない。土下座させて反省してほしいわけでもない。ひょっとして昔はあったかもしれないが今はない。母に土下座してほしいと思った事はあったかな。
父がいなくとも、一人前の大人に母が育ててくれた。それだけでいい。それが大事だと思う。
特に若いころ、年配の男性と話すのが苦手だったというのはある。今も私が子どもに演じている父親像というのも、見本が無いぶん異質なものかもしれない。完全オリジナルである。高校を出たら働くというのは決まっていたので、学校の勉強は真面目にしていなかった。進学していたら、違う人生になっていたかもしれない。このあたりは父がいない影響というものもあるだろう。
私は父性が欠如しているかもしれない。歪んだ思考そのものが、父がいない影響かもしれない。
しかしそれを含めて、今の私である。今の私はそんなに悪い人間じゃないと思う。子どものころの私は、母が育ててくれた。大人になってからの私は私が育てた。
私の人生に父は必要なかったのだ。
父の最期に会わない事によって、それを私は父に伝えた。悟ったかどうかは知る由も無いのだが。